【第4詣】Mile Mode / 木頭村2日目

コラム
2015.06.30

2012/7/9 (月曜日)

撮影スケジュール

・8:30~9:00 岡脇文吾さんによる山案内&撮影
・9:00~9:30 山の出小屋にて上本好夫さんインタビュー
・9:30~10:00 上本好夫さん,岡脇文吾さんと下草刈り撮影
・11:00~12:30 索道(さくどう)等、作業風景撮影
・12:30~13:30 索道現場で昼食(弁当)、周辺撮影
・15:00~16:00 野口菊秋さんインタビュー。夜 宿泊(小森旅館)

6:30

背中と腰の痛みで起きた。一瞬ここがどこだか分からなくなった。ここはまがいもなく、木頭村の炭小屋の中であった。横を見るとジャンフィとジュリアンが居心地が悪そうに板の間で寝ている。縮こまると一際足の長さが目立つ、ガタイはでかいが子供のような寝顔を見せるジャンフィについて、前回「昔の知り合い」とだけ書いた。

映画の中ではほぼ出てこないのだし、ここでちょっとそのキャラクターを若干描写してみれば、仏人らしくデリケートで、辛辣な毒舌を持ち、そしてかなりの皮肉屋なのだが、なぜか自分にとっては弟のように思える存在でもある。そのためかなにかにつけて兄貴面をして欠点を見てしまうようなところがある。またそのために何かを見落としているような気もする。自分が「参/マイル」と名乗る以前を知っている者でもあり、妙な馴れ合いのような感覚もある。

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昨年(2011年)の東日本大震災の後、各国政府が東京脱出を叫んだ。日本政府が幾分悠長に20キロ圏内のみ避難と決定した一方で、米英豪などは80キロ圏内避難の方針を取る。フランス政府は自国民に対し帰国か日本南部への避難を勧告した。

ジャンフィが困惑した面持ちで神山の我が家に来たのは3/19日のことであった。自分の家族、そして友人・知人のほとんどが暮らす東日本の残状をただテレビやネットで見守るしかない事の無力さとともに、なぜここに来たのが自分の親族ではなくこの仏人の友人であったのかとしばらくの間、思考停止状態になり、ただぼんやりとしていた。

徳島にいた友人のスウェーデン人夫婦も4月末には自国へ戻り、「使えるなら使って」と家財道具から車まで我が家で引き受けたのであった。(そのやたらハンドルの重い中古車は、その後ジュリアンが乗ることになった)知り合いの外国人が東京から避難してきたり、国外に退避していく。他にも避難してきた人たちが相当数僕の住んでいた場所の周辺にやってきては去って行った。自分はただ、ずっと呆然としていた。

今にして思えば、この震災の時の茫然自失的「無力感」こそが、常に及び腰な僕を様々な辺境へと赴かせた原動力になったようにも思う。

携帯の目覚ましチャイムがなってガサゴソと皆が起き、前日の残りで作ったおにぎりを朝と昼の二食分作る。(とても奇妙な)温泉で晩に買っておいたワサビのふりかけが、ここで存外に役立つ。作った朝の分の握り飯(ワサビふりかけ入り)を急ぎ食べ、本日も引き続き案内役の玄番(げんば)さんを待ち、彼の到着に合わせて出立するべく、イグニッションキーを回した。快晴である。

途中、本日同行して案内してくれるという方の家の前へと立寄る。近くで湧き水を汲んでいた五十がらみの小柄な男性が、ぴょこっと会釈をして目の前の軽トラに飛び乗る。男性は「愛嬌ある強面」とでも形容したくなる容貌をした岡脇文吾さん(こちらはブンニイと呼ばれている)である。山の管理会社で働いているらしい。

ブンニイと玄番さんの走らせる軽トラ二台が割とスピードを出すため、僕のオンボロ車は少しばかり手こずる。ここはすでに要4駆な境界線の向こう側である。

「オンボロ、オンボロ」と形容し続けているが、思い返せばこの車も貰い物なのであった(スウェーデン夫婦からのとは違う)。今や一世を風靡してる感のあるグリーンバレーの大南理事長の子息が乗られていたものを譲り受けた。譲り受けたといえば聞こえがいいが、車がない僕をみかねてショーガなく提供してくれていたものを、僕が一向に自分で買う気配がなく、これもまたショーガなく「もうええわ」と下賜して頂いたもので、いわば「借りパク」に近い状態で僕の所有車となった。

日経BPが出した『神山プロジェクト』という(取材された当人たちにはいささか面食らった)本に僕の章が割かれているのだが、その中でひたすら「長岡マイルはとにかく貧乏であった」ということが念押しされている。そこまで言うか、という気持ちもあるにはあるが、僕は実際貯金など一切ないジリ貧であった。表紙の一部としても使われた酷い風体の顔写真とセットとなって一層寒い感じが読者に伝わったことであろう。上述したように調味料や家財道具一式(なんならこの時もらった枕は2015年の今でも使っている)、そして車までもらいうけている。それで出来たばかりの子供がいて、人生初の映画まで撮りだしているのだから自分でも不思議であった。・・・とにかく旅に戻ろう。

8:34

ジリ貧と仏人とイケメンモデルとを乗せたオンボロ車は再び炭小屋付近に戻り、小屋の前を流れる小川沿いの細い砂利道を南下して、目的地であるゴシュインサンという山に至る。ここで林業の現場を見せてもらうことになっていた。ゴシュインサンと書いたが、この山の正式名称は「御朱印谷山(ゴシュインヤサン)」のようだ。木頭では皆「ゴシュインサン」と呼称していたと思うのだが、「ヤ」が聞き取れなかったのだろうか。ここでの記述は正式名称に則ることにする。

その御朱印谷山に入ってから、急勾配ですさまじい悪路になり、あちこちで大小の石が転がっている。幅も車一台分がやっとの道だ。馴れていないため何度も後輪が石に乗り上げ、鈍くて嫌な音がする度に冷や汗を掻いた。少し道が開けた林の前で二台の軽トラは止まり、その中へとずんずん歩いて行ってしまった。なんとしても話をきかなければと急いでカメラを載せた一脚を担いで後を追い、ここでの間伐の話等を文兄から聴く。

慌てて森に入る。小柄だと思ったブンニイだが、間近で眺めてみると筋肉が異常に発達しているのが目に付く。

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ブンニイの手。

車に戻り又山道を暫く登る。我がマーチのアクセルを何度も病的なほど踏み続けてようやく登れるような道であるが、途中一面の河原のような落石まみれの場所では前後不覚的に動かなくなり、仕方なく必要機材だけ積んで玄番さんの軽四バンに同上させてもらった。この間ほとんど我々は無言である。アイコンタクトのようなものだけで動いていたように思う。山が徐々に迫力を増してくることもその一因である。

眼前に山頂が現れてきた。その途中の断崖の近くで停まる。この下に、作業用の出小屋があると云う。かなりの急勾配の山道を、タバコに毒され太り気味の自分はかなり喘いで降りたのであるが、ジャンフィが冷徹に見下すのにやや腹が立った。このやろう。そのような目を向けられる筋合いなどないと思いつつ、視線をパンさせると、録音機材を持ったジュリアンはどうしていいか分からないような素っ頓狂な顔をして黙って会釈をしてくれた。しょうがなく俺も会釈を返した。

今にして(2015年6月)思うがこの時の自分は異常な程太っていた。実は自分は痛風持ちである。上で「ジリ貧」と記載しつつ「贅沢病」と揶揄される痛風を発症したんかいというツッコミは甘んじて受けよう。だが、これはほとんど遺伝のためらしい。そいういう素質があったのだ。若さに任せて徹夜やら不摂生やらを繰り返していた東京は下町に在住時、ある朝いきなり足の親指が腫れ上がってしまった。27歳の時である。それ以来ビールを絶つ等して気をつけてはいるものの、時折忘れた頃に発症する。

この時も知らず知らず尿酸値が高くなっていたためか足首がパンパンに膨れ上がっていた。イキセキつきつき喘ぎつつ慣れない山道を機材とともに下った。

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出小屋の中。

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山のイケメン、上本好夫さん。

ブンニイに連れられてなんとか小屋に入ると、彼の同僚だと云う男性が下草刈りをしていた。穏やかな痩せ型の三船敏郎とでも言うべきイケメン男性は、上本好夫さんである。「まあこんなところまで良く来た」という感じで小屋で話を聴きがてら休憩。ブンニイが、長鎌磨きを見せてくれた。小屋を出て下草刈りを撮影し、上本さんに色々と訊く。

映画では使用しなかった木の柾目と板目の話しなど。

 

10:40

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ブヨがうようよしているが、「森」を感じる山頂付近。

また喘ぎ喘ぎで車のある所迄よじ登って乗車し、ようやく山頂に到着。ブンニイが映画の中でも出てきたような説明をしてくれた。「谷があがっとんじょ」と木に耳を当てて彼は言った。以前は水道管に耳を当てたような音が木からしたと年寄りたちは言っていたが、今はなにも音がしないのだと。水=谷なのか、谷の水が干上がってしまっているということなのか。

道すがらの景色はかなり荒れていたが、山頂付近だけはキレイなブナ林があった。「ああ実に森だなあ」という感じである。ここだけは、元の木のをそっくり残しているのだと云う。「土を踏んでみろ」と言われたが、たしかにその辺りの土はフカフカなのである。山が生きているか死んでいるかどうかの指標は、土の軟度の違いで素人目にも露骨な感じで分かった。それに空気がまったく違うような印象を受けた。

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倒れたブナの大木とジュリアン。いかに大きな木であったかが分かる。

昔は全部このブナの森だったのかと思うと気が遠くなる。一部を残しているとはいえ、山頂だけではしょうがない。辛うじて残っていたこのブナの巨樹(根がその樹高の数倍もある)も、最近になって人知れず倒れてしまったのだという。離れがたい場所だったが、ブヨがうようよして次第に痛痒を感じてきたため次の場へと移動する。

山頂からやや離れたところで、索道という空中ケーブルで伐りだした木を運ぶ仕事をしていた。遠くの谷下にいる伐り手と、こちら側のケーブルの操縦士が無線だけで連絡を取り合い、まさに阿吽の呼吸で作業をしている。

ウインチを操るのは走川星(ソガワタカシ)さん

それにしてもなんという神業でだろうか。何をどうしているのか、素人目にはまったくもって判らない。しばらく撮ってみた。だが全然足らない。ここはもっとじっくり撮りたいと咄嗟に思った。

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オタフクと呼ばれる滑車。ワイヤーが切れてこれが飛んでくると、命の保証はないと云う。

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黙々と仕事をするソガワさんと撮影するマイル。

ー来た!この瞬間こそ、自分がカメラマンと呼称できるかもしれないところなのだ。自分はこの瞬間のために生きているのではないかと思うような瞬間である。昨日の鹿の解体撮影もそうだ。誰がなんと言おうと撮りたい!このスイッチが入った時はほぼ無敵状態になる。が次の予定へと行かねばならない…。

「明日もまた来ていいですか?」
「雨じゃなかったらやってるよ。いいよおいで」
というソガワさん。12時を回っていたので、そこで皆で昼食。

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ジャンフィとジュリアンが食べているのは、無論ワサビふりかけ入りの握り飯である。水は全員で一つのペットボトル(水 by ブンニイの家の近くの沢)を。

また明日また来ますとソガワさんと約束し携帯番号をゲットする。河原で玄番さんの車から降り、愛車マーチに乗り換えて山を降りる。ギアを1速に落として急な坂道を降り乍ら思った。「山は一体だれのものか」と。

山には山の所有者がいて、その人は固定資産税を払っている。その人のものだからである。その山を管理しようと、管理しまいと別に責任はない。倫理的にやった方がいいんじゃない?とか、景観的に汚いじゃん?とか、なんだか杉がこんもりしてて地盤やばそうじゃない?とか、竹の色変色しちゃってなんかやばそうだけど大丈夫?とかヨソモノは色々と思うが、山の所有者に「ウチの山どうしようとウチのカッテだろう!」と言われたらそれまでなのである。木頭の山のほとんどは大規模山ホルダーが持っている。だからこうして手入れもちゃんと様々な会社に雇われた熟練のアニイたちがそれを仕事として出来る。或は森林組合が出来る。

けども個人でも持っている多くの山は、そのアニイたちに委託するお金をしぶる。いやそもそもお金もなかったりする。そして家族の中では大事な思い出がある。これは、死んだじーさんが管理してくれた山だ。材木はいづれ値上がりするかもだ。今はそりゃ酷いよ。でもわからんじゃん。上がるかもじゃん。だから伐らないんだ。オヤジはこの山の木伐って大学いかせてもらったんだ。自分らの代でないがしろにできないだろ?ずっとウチの家で管理して山を守って来たんだ。固定資産税も払って来たんだ。だいたいこういう理屈である。…聴き手は無言になるしかない。「ですよね」と。

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しかしこの眼前に広がる光景、すなわち自然界は、そんなこと関係ないんじゃないかとも思う。虫も鳥も動物らも所有の境界線なんて関係ないのだ。県境だろうが、区分だろうが、そんなことは関係ないのだ。ちょっとした高低で植生やら生態やらが変わるみたいな話はおいといて、ここでは人為的な境のことだ。川上の自然が荒れれば、川下の自然も荒れる。そんなことは誰もが分かっている。だが、目の前の暮らしのそれはそれでの壮絶さ、大変さによってそれはマストなToDoから外されて行く。それも日本中で。そんな印象を受けた。

自分は森林問題の立派なジャーナリストでもなんでもない。或はミンゾクガクシャでもない。ただのあらゆることを知らない撮影者である。だから疑問となるのはほんとうに初歩のことだ。それぞれの道のツウからしたら、「なにお前そこいってそんなこと聴いているの?」と言われるだろう(実際何度か言われた)。だが、そんなツウな人は平易に分かりやすく説明してくれはしないし、話が細分化し過ぎていてまったくトータルとしてわからない。普通にテレビのニュースを見ても頭が悪いためかまったく理解できない。だから自分は自分なりに了解しようと思っているのである。それがほんの小ちゃくでも、何かの役に立てたらいいなとも思っているのである。

15:00

案内して頂いたブンニイに別れを告げ、3時過ぎに村で一番の古老/長老的存在だという野口菊秋(ノグチキクアキ)さんに会えることになっていた。「チョウロウ」という言葉の響きには独特のオーラがあって、ちょっと緊張するが、菊秋さんは気さくに「昔の話をききたいって?まー入て」と僕らを受け入れてくれた。菊秋さんは92歳だという。ハンパないなあ。今迄の例に習って「菊ニイ」と呼ばれているのかと思ったが、誰もそう呼ばない。ニイと呼ぶ呼ばないは年齢なのか、それとも役職とかで決まって来るんだろうか。分からない。

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「生き字引」野口菊秋さん。野口さんのインタビュー記事と映像はこちらから。

「菊秋さんの話は、よその人にはとても聞き取れないんですよ」と、玄番さんの奥さん(まきこさん)が通訳をかってでてくれる。「いやー徳島に住んでいるのだから大丈夫っすよ」と豪語したが、甘かった。カメラを据えようとすると、いきなりチョウロウは昔語りをこっちの都合などまったくおかまいなく、外国語の呪文のような言葉で話しはじめた。

慌ててRECボタンを押し、文字通り傾聴する。だが訛りや業界用語が多くて苦しむ。前後の脈絡や当時の時代状況を含めて・・・まったく理解できない。たとえば「当時○円ぐらいじゃった」と言われても、その時代のお金の相場が変わらない。また季節感についても、おそらく旧暦の季節用語で農作業を行われていたはずなので、「土用が終わってしばらくしてから」みたいな言葉に、「ああ、あのくらいね」とすぐに反応することが出来ない。ー断絶、そう断絶がある。この人と僕の間では同じ日本語と日本カルチャーに住んでいながら、まったくもって断絶がある。時折まきこさんが解説してくれて「ああ」と思うが、撮影するには時間がかかり過ぎる。

90過ぎられた方に長時間語ってもらい続けるのも気が引けるので、ニュアンスで聞き取るしかない。ここでは全容の理解は諦め、後の編集作業で解読することにし、撮影に集中することにした。とにかく映像での撮影中は、「あ、すいません。それなんですか?」と聴けない事が多い。そもそもカメラマンというのは、視聴者が見ている映像からは普通は「ないこと」になっているのだ。

仮に、たとえばマイケル・ムーアのようにどしどしフレームに入りこんで行って「あること」にしよう。だが日常会話であれば、どしどし聴けたりするけども、カメラが回っているのだからそうもいかない。予め知っていることを、こう聴きたいと仕込んでいるものならば問題がない。しかし僕らのやっているドキュメンタリーの場合は忙しい手を休めてもらって、あるいはしんどい最中に無理をしてもらって、こちらが知らない話を聴かせてもらう場合がほとんどである。(或はもう聴かれたくないようなものを蒸し返してしまうようなこともある)また監督とカメラを両方やらなくてはならない。インタビューアー役も(なんなら運転手役も)。そして取材相手もはじめましてなので、何を聴かれるかわからない。そのために、お互い分からないことをなんとなく了解して、かつ自分の聴きたい事へと誘導していく会話テクが必要となってくる。大変だ。

菊秋さんはプラス、耳も結構遠い。補聴器越しに「ええ?」と大声で問われてしまうと、小心者の自分は一気に猫も噛めない窮鼠みたいになって、きょどってしまうのである。

それでもなんとか一番聴きたかった、山作(焼畑)の話などを聴いた。キャラバンを始めてから、2日目である。一々が現場での実践。まだまだ手探りである。

野口さんは戦中、フランス軍の捕虜となっていたらしい。タイミングがいいのか悪いのか、フランス人と日仏ハーフを現場に連れて行ってしまった僕は若干焦った。捕虜時代の凄惨な体験を怒りとしてこの二人にぶつけられてしまっては、なんだか『ゆきゆきて神軍』のワンシーンみたいになってしまわないだろうかと…。だがまったく違った。フランス人の看守らには、「たいそうよくしてもらったんじゃ」と菊秋さんは笑った。

ジャンフィを見てほがらかになにかを懐かしがるように、どこか遠くを見ていた。

なんか最後はヤケにほっこりした気持ちとなって、チョウロウの下を辞した。既に木頭は黄昏時となり、山に囲まれたムラはやたら奇麗に色づいていた。この日は小森旅館という木頭支所の傍にある旅館での宿泊。二食ワサビふりかけご飯だったからか、やたら美味しく感じた晩御飯だった。

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撮影のデータ移動して本日終了。お疲れさまでした。(写真は携帯から)

(翌日へつづく)

執筆者

長岡参
長岡参
千葉県出身、2012年から神山町在住の映像作家。長岡活動寫眞を立ち上げる。『産土』『産土 壞』の監督、企画、編集まで担当する。