山の達人のつぶやき。

インタビュー
2015.02.21

温暖で雨の多い気候のため、昔から林業が盛んであった、徳島県那賀郡木頭村(現・那賀郡那賀町木頭)に生まれ育ち、現在、炭焼きや間伐、小屋の建て方などを体験できる「おららの炭小屋」の会長を務められている大城慶太郎さん。周囲からは「けい兄(にい)」と呼ばれ慕われている。

さまざまな木を見て瞬時に種類を判別したり、古いヤスリからナイフを作ってしまったりと、「山の達人」という形容が大げさでないほど、山の仕事を熟知されている大城さんは、だれかに手取り足取り教わったのではなく、見よう見まねで盗むようにそれを習得してきた。

戦中は三菱造船所を経て都内で消防署に勤めており、空襲後命からがら故郷に戻り、再び林業に従事した。家族のため、休む間もなく働き続け、大小の怪我も絶えなかったという。

「ツケが回ってきとんじゃ」と痛む足をさする大城さんに、山での思い出や昔の林業、そしてひどくなる一方である山の現状について伺った。
(敬省略)

大城さんインタビュー映像(抜粋)

「あしなが」知らんか?

——山へは何歳から行かれていたんですか?

大城:山へは7歳くらいからじゃのう。まだ小学校に上がらんうちに、親父に弁当だけ持たされて行ったこともある。「山にいっしょに行かんか」って。親父は大きなお弁当を持って、わしの分はおにぎりにしてもろうて。

——学校に行くよりも山に行っている方が……

大城:遊びに行くようでおもしろかった。勉強は大嫌いでせなかった(しなかった)けん(笑)。

——出席日数は大丈夫だったんですか?

大城:月に10日くらいは休んどったな(笑)。

——その当時は山でどんなことをされていたんでしょうか。

大城:焼畑してたんやの。木を伐って半年くらい乾燥させての。それを焼いて、ヒエ、アワ、アズキ、なんでも作ったの。そんなのがだいたい山仕事やの。

最初のうちは焼畑する場所が近かったけんど、いっぺん伐って焼いたらあと何年か作れんけん、する場所が遠くなってのう。行くまでに何時間もかかった。

——3時間くらいの距離を歩いて行かれたんですか?

大城:うん。腹は減るし「あしなが」は破れるしのう。「あしなが」知らんか?

——「あしなが」というと?

大城:ぞうり、わらじ。

——ああ、わらじですか。わらじで行かれてたんですか?

大城:うん、それを毎晩作ってたのう。山から帰ってきたら藁(わら)を叩いて編んで「あしなが」にしての。それを履いて行きよった。

——毎晩作ったということは、たった一日で壊れてしまうんですね。

大城:一日中山をいじくって戻ってきたら破れるで、毎晩のように作ったわ。わしは1年生過ぎたらもう自分で作れって伝授されよった。4〜5年生にもなれば、ほとんどの子供が自分で作れたんやの。自分だけやなしに、学校中みんな「あしなが」やったの。

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山仕事は「見て盗め」

——木の種類や仕事のやり方など、お父さんからは教わらなかったとおっしゃってましたが。

大城:教わっとらんのう。なんにしても「人のしよるのを見てせい」っての。「人がしよるの盗め」って。そやけん「これせい」って教えてくれはせなんだ(しなかった)。毎日のようにいっしょに山には行ったけんどの。

——代々そういうふうにして、山仕事は目で見て盗んできたんですね。

大城:ほうじゃの、見よう見まねじゃの。今やったら全然できんにしても、だれかに訊きゃ教えてくれるけど、そんなこと親父は全然してくれん。

17〜18歳にもなれば、ノコギリの刃を自分で扱うようになるけんど、これも教えてくれんで、「自分でやってみて一番切れるようにしたらええ」って。

——初めて狩りに行かれたのはおいくつぐらいのときだったんですか?

大城:それは15歳か。親父の鉄砲を、兄貴と二人で1丁ずつ盗んできての(笑)。

——盗んできて(笑)。

大城:うん、親父がおらん間に。 火縄銃って長いやつ、それを二つ取りに行って。

親父が弾を込めるのを見たことはあったけんど、十分に知らなんだ。火薬と弾と別にせんといかんのやけど、それを火薬入れてすぐに弾を入れて。それで撃ってみても「パーン」て音はしたけんど、向こうに弾が飛ばんで雪の上に散弾だけバラバラバラっと。なんぼやっても当たらへんで、雪の上が真っ黒になってな(笑)。

戻ってきたら親父には叱られるしのう。顔の近くに銃を近づけて「パーン」ってやって、顔の皮がはじかれて血が出て、それが見つかったんよ。「お前どうしたん、白状せい」って言われて、鉄砲を盗んで二人でやったんやとバレての(笑)。あの時分が一番おもしろかったんじゃないかの。

——鉄砲も山仕事も、教わるのではなく、やってみて失敗しながら覚えていったんですね。

大城:失敗が成功のもとになっての。

——炭焼きも教わっていないんですか?

大城:うん。親父と焼畑に行ったとき「炭焼いてみるか?」って。傾斜に向かって深く掘って、丸太を並べて、その上にツガ(栂)とかモミ(樅)とかの皮を剥いでかっぽり被せて。それに土を乗せて、木に火をつけて焼いて、それが始めじゃったの。それも「自分でやってみ」って。

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古いヤスリで自ら作ったというナイフ

拝むサル

——猟についてお訊きしたいのですが、捕られるのはやっぱりシカやイノシシですか?

大城:まあシカと、その時分はウサギがようけおったけん捕ったわ。

——捌き方も、やっぱり見よう見まねで?

大城:おう、見よう見まねやのう。 猟をしよる人はようけ(たくさん)おったけんのう。猟師の一番、頭領っちゅうんか。その人がシカでもイノシシでも捕ったら、先に臓物を退けとくんや。退けたら中に血が溜まるんよ、その血を飲みよった。飲めば元気になるけんって。ほれはわしは飲めんかったわ(笑)。

——えーっ!

大城:これは飲めん人おった。

——ほかの先輩猟師さんたちはそうやって血を飲んでたんですか?

大城:飲んでる人おったわ。おれは飲め飲め言われても飲まん。手元に持っていったらもう臭いよるようでのう。

——サルも捕って同じように捌いていたんですか?

大城:うん、やった。サルはおいしかったのう。最近は捕らんけんのう。あの時分はイノシシと変わらんくらい味がよかった。いい味しとったよ。

——牛肉みたいな味だと……

大城:ほうじゃのう。今の高い牛肉よりだいぶおいしいのう。このごろはもうだれも捕って食うたりせんけんどのう。

ほなけんど猟のときにのう、サルがこう(拝むような仕草)やるの。こうやったら人間の子供がやるのといっしょよ。ほなけん気色悪うての。

——大きさも人間の子供と同じぐらいですしねえ。

大城:そう。大きさが人間の子供みたいな。

サルは1匹捕ったら捨てるところがなかった。なにもかも食えるけんの。腸も塩漬けにしたり、全部使いよって。昔はサルは珍しかったけん、滅多に取れんかったんよ。このごろはなんぼでもおるけんどの。

昔の林業

——山から木を運び出すために使われた木馬(きんま:木製のソリ)は、危険が伴ったと聞きましたが、杉が沢山植えられる前から木馬はやられていたんですか?

木馬曳きの記録映像

大城:木馬は戦前も戦後もずっとあったけんの。「もったさん」って呼ばれる、杉を沢山持っとる人が伐って出しよったんよ。

谷に入って道を作って出してきての。5メートルも6メートルもある長い材木を、谷に橋架ける。それでその上に木を並べていって、それをカズラ(ツル植物)でくくって。その上を木馬で引っ張ってきて。

カズラも新しいうちはいいけんど、1年もしよったら腐ってすいて(空きができて)くるで、踏んだらぽちっと折れるけんのう。何メートルか中に落ち込んで(落ちてしまって)、木馬で首を切って怪我することもあったわ。肩に木を引っ張る縄をかけとるんよ。それが取れんけん、それといっしょに落ち込んだところで、上から木がたらたらーっときて。そんなことよくあったわ。

ほりゃあ痛い目にだいぶおうた。まあいろんなことで苦労してきたわ。その苦労が足の痛みにきたんじゃないか?

——その足は怪我をされたんでしたっけ?

大城:山仕事で木馬曳きしちょって、材木といっしょにこけて、片方の足がこっち(外側)に向いとったんよ。

——ええっ? 気づいて見たら曲がってたということですか?

大城:うん。そしたらみるみるぽおっと腫れてきてのう。医者に行ったって、湿布薬みたいなのを貼って水で冷やしたりしての、そんだけよ。1ヵ月くらい仕事ができなんだ。

——薬がないから薬草みたいなのを貼られていたとお聞きしましたが。

大城:そうそう。ジュウヤク、ドクダミ。あれを焼いての、それを傷口に貼って、その上からショウブ茶で蒸しての。ショウブ茶って知っとるか?

——名前だけは。

大城:あれを採ってきて湯で温めて、傷口にあてての。ほんな治療しかなかったんよ。

——なるほど。石造りの「出原谷の鉄砲堰(てっぽうぜき)」の跡地を見て来たんですが、川で木を流す作業もやられてたんですか?

大城:やった。石の堰やなくて、木の堰の。石の堰はこっちにはなかったからの。普通は木で組んでいって堰を立てて。これも危ないことが何回もあったわな。

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材木を下流の町へ運搬する際、川の水を堰止め、一気に堰を切り、その水圧を使って木を流す方法がとられていた。(写真提供:木頭支所)

—— 一本乗り(丸太材を川から出す作業。流した丸太が川縁や岩などに引っかかるため、木の上に乗り、鳶口のついた竹竿一本のみで操って川を下り、再び流れにのせた。非常に危険な命がけの作業だが、当時は花形的仕事であった)もされていましたか?

大城:鉄砲関で出したやつをのう、一本乗りで行きよった。年に3回か4回も行きよったで。川の水がなかったら木が流れんけん、水の多いときに行きよった。ほんまにいろいろと危ない目にもあったわの。

一本乗りをしていて木から落ちて、木といっしょに自分も川に流されて。木がようけ(たくさん)周りにあるけん、水に落ちたらなかなか出てこれんで。 ほやけん長いこと死に物狂いで岸のほうへ移動して、ボコッと浮き上がる。浮き上がったときには怪我をして鼻くそやなんやらわからんような顔になっとった。

だれも死にはせんかったが、ほりゃ何人もこういう目におうたんやの。(落ちた仲間が)ひょっと浮き上がってきて、また水の中に沈みよるから、頭領も慌てて引っ張って岸から出した。そうすると水をばあって吐き出しての。怪我人が出ると、その日は一日休みというときもあったわ。

——毎日いろんな仕事があってずっと働かれて、休む暇もなかったと伺ったのですが。

大城:ほうやのう。まあ日曜、祭日なんてそんなんもんなかったけんのう。人が休んでるときでも、貧乏人は毎日仕事に行かなんだら銭がないけんの。子供二人養えんで。毎日毎日仕事ばっかりしよった。今そのツケがここ(足の痛み)に回ってきとんじゃ。

——山の神様の日は休まれたんですか?

大城:そらあ参りに行っとったのう。山の神ってのはのう、ここらへんだとだいたい毎月7日か、ほりゃみんな休んで、この日は酒もようけ飲んで。

それも「もったさん」っちゅう、銭のある衆が全部しよったんやけどのう。銭のない衆は、ちょこっと祠(ほこら)に参って、それで仕事に行きよった。休ましてくれなかった。ようけ(沢山)山をもっとって裕福な衆は、一日休んでも賃金くれよったの。

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山が痛んでいる

——杉ばかりになる前となった後の林業って、結構違うものですか?

大城:全然違うのう。ここの家に来る前に山の上に住んでたころ、昔はほとんどが雑木(ざつぼく:経済的価値の低い広葉樹)ばっかしだったわ。杉林は一ヵ所くらいあったんかな。あと、みんなほとんどは田んぼと畑やったもんな。全然変わっとるの。

——なぜこんなに日本全国が杉の山になってしまったんでしょう?

大城:それは戦後に、偉い人が来たんだけどの。1町歩(約1万平方メートル)に3,000本植えたら補助金をくれたんや。[※拡大造林政策]銭のない時分やけん、杉苗を買うてきたり育てたり、自分の手で植えたわの。悪いところもええところもなしに、石一つあってもそれを退けて、植えたわの。土のないところは土持っていってまで植えよった。銭がなかったけん、銭をくれるからしたよの。

——植えたらお金になるんですか?

大城:3,000本植えたら補助金が出よったんよ。3,000本以下だったら補助金が出んけん、密植になっても植えよったんよ。今、杉林の中に入ってみたらもう密集じゃ。幅が1メートル20~30センチの間に植えたけん。土地が急斜だったら植わらん(植えられない)けんの。平坦部だったらいいけんど。

——もともと生えていた木(雑木)を倒して杉を植えたんですか?

大城:そうそう。ここやったら昔からブナの木の大木などがよくあったわの。それを全部伐ってしもて、それを焼畑したんよ。その後で杉を植えてな。その植えた杉はいっぺん伐ったけんどの。杉の木は40年もしたら伐れるけんのう。

——御朱印谷山(木頭村の奥にある山)に17〜18歳ぐらいのときに行かれたのも、その作業のためなんですか?

大城:そやのう。その時分からの。

戦争中には補助金はなかったんじゃ。補助金が出たのは戦後やの。その時分に植えたやつは焼畑をさしてもらうたびに植えとったん。ようけ山をもっとる「もったさん」は、自分は仕事せんと「杉を植えてくれるんなら面積の半分やる」とな。それでわしらは半分もろて杉植えたんや。今自分が持っとる山はみんなそうや。

——木頭村もそうですが、これからの日本の山は、どういうふうになっていくと思われますか?

大城:もう、このままではだめじゃの。このまま材木を伐らずに山の中に置きよったら、自然に崩壊してしまうで。土砂はいっぱい流れてくるし、山は痛んでしまうわの。やっぱり早めに杉の木を半分に伐って(間伐して)しもたら、ほいたら伐ったところに日が射して草が生えるけん。下に草が生えたら地面に保水力が出てくるけん。

今はもう全然駄目で、雨が降った後は土砂が全部流れるけん。やけん、山がハゲてしもうて、ダムに砂がいっぱい溜まってくるけんの。早いことなんとかしなだったら。けんど、それは行政がするこっちゃけん、こっちはできんもんな。土砂でいっぱいになってしまうけん。早いことしてもらいたいの。

——昨日訪ねた御朱印谷山の上は、すごく土がふかふかだったんですが、昔は山全体がそうだったんですか?

大城:そう、ふかふか。あそこは山に保水力があって、台風が来ても何日かしたら全部水が染み込むけんの。ほなけん、直接水が川まで来なかったもんな。

このごろは雨が降ったら全部水が流れてしまうの。ほんで山が痛んでしまうわなあ。早いこと間伐してもらえたらのう。伐る人はおらんし、若いのはおらんし、自然のことは放ったらかしになるわのう。なんとかしてもらいたけんどのう。(了)

執筆者

長岡参
長岡参
千葉県出身、2012年から神山町在住の映像作家。長岡活動寫眞を立ち上げる。『産土』『産土 壞』の監督、企画、編集まで担当する。