山の生き字引

インタビュー
2015.02.21

徳島県那賀郡木頭村(現・那賀郡那賀町木頭)で長年林業に携わり、インタビュー当時(2012年)すでに御歳九十二を数えられていた「木頭の生き字引」野口菊秋さん。

戦前の村の様子や子供のころの思い出、また、先人の教えや戦後変化していった山仕事、そのむずかしさなどについて、ときには当時の会話や地域独特の言葉も交えて、かなり詳細に語ってくださった。
(敬省略)

野口さんインタビュー映像(抜粋)

「やまざく」から植林へ

——戦前は杉の植林をしていたんでしょうか?

野口:このあたりで杉の植林が始まったのは大正の初めごろらしい。明治のうちに植えたという話は聞かだった(聞かなかった)な。全部どの山も杉になったというのは戦後じゃけんな。わしら子供のときは、この谷の奥のほうは杉がちょっと植わっとったけんど、だいたい里山は杉はあんまり植わっとらんかったな。「やまざく」という焼畑農業をしとったけんな。

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木頭村「やまざく」スケジュール

——焼畑でヒエやアワを作ることを「やまざく」と言うようですが、それがどういうものなのかを教えてもらえますか?

野口:「やまざく」をやっていたのは昭和30年(1955年)ごろまでじゃったな。やっていたのは奥山やけん、大きなスズタケ(クマザサのこと)がいっぱい生えてた。スズタケは竹じゃからそれを伐って燃やすと、山がよう燃えとって、大きなヒエが取れとったんじゃ。鍬(くわ)で叩くようにスズタケの斜面を打ち込んで、種を植える。春にあんまり日照りしなかったら大きなヒエができるもんじゃったな。

昭和21年(1946年)に戦争から帰ってきて、家族もようけおったが、翌年に取り込んだヒエを食料にして、十分やっていけたわな。あの時分はとにかく食料に弱りよったけん、「あっこ(あそこ)の人がヒエようけ採った」言うたら、奥のほうの人も分けてくれ言うての、よう来よったわ。

ヒエっちゅうのは山仕事に行くもんには良かったんよの。ずっと山の上のほうでは水が少ないき、水を背負うてくるのに弱りよったんじゃわ。ヒエはムギと違って洗うことはのうて、水は少のうて炊けるし良かったわの。ゴウゴウゴウゴウ湧いたら炊けとるんじゃけ。

当時はヒエやアワ、キビは政府から配給で抑えられておらずに自由販売だったからの、ようけ下(しも:徳島の平野部)から買いに来て、(売ったお金を)衣料品と交換しよった。

「やまざく」をしていたときは、田植えが終わって今ごろ(7月上旬)から雑木(ざつぼく)のあるところの伐採を始めた。土用のうちに伐った部分は、木が相当乾燥しとるんじゃろ、それでよう焼けるっちゅうこと言いよった。あんまり遅い時期に伐りよったら、山がようけ焼けんから、作(さく:作物)は採れんっちゅうこと言いよった。「山さえよう焼けたら作は採れる」って昔の人は言いよったわの。

山を焼くっちゅうのがなかなか技術がいるんじゃな、割合めんどいんよ。木を集めてそれを小切って(細かく切って)「グロ」というものを作るんじゃ。傾斜があったら燃えた木が下へ滑っていったりする。一つグロの下へ火を点けて次のグロまでというように、次々と燃え移っていくように並べないかん。

それでとにかく全部焼いて、アク(灰)にして、そのアクが肥料になって作物ができよったんやな。今ごろから彼岸(ここでは旧暦の彼岸のこと。新暦の8月7日前後の立秋の日)まで伐りよったな。そうして乾燥させておいて、明くる年の3月の末に伐った木を焼いてな、それからヒエの作付けをしよった。8月の末に彼岸が終わったら採り入れする。

普通は一年目はヒエを作るけんど、二年目はアワにアズキにダイズ、三年目にはミツマタを植えよったけんな。ミツマタは紙幣にするんじゃから大事じゃわの。このへんでもようけしよったわ。

正月前後には家の近くに臨時の小屋を建てて、そこでこすりよったわの。皮を剥ぐのに。このへんでは「ミツマタへぐる」いうて。10貫(約38キログラム)が昭和30年ごろには1万円したんよ。だいたいは女の人や年寄りの仕事じゃったけんど、わしの親父も終戦後は山の仕事よりはミツマタをようけしよったわな。

このへんでは山は広いし、わりあい「やまざく」しよったけんど、戦争前には雑木林が多かったんやわ。戦争から戻ってきて10年くらいしたとき(昭和30年・1955年以降)から、特に雑木(ざつぼく)をパルプにして、どんどん売れるようになってな。それで雑木が全部出てしもた。そのあたりに杉の植林をしたんや。杉の植林をしたら政府から補助をもらえるから植えたんじゃな。

杉を伐採して売って、その後また杉を植えた。始めのうちは補助金が苗代になるくらいしかなかったのが、昭和35~36年、40年ごろになったら、それ以上あったわな。苗代どころでない、植えるときの半分ぐらいの補助はあったな。

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山仕事の危険

——山ではどんな仕事をされていたのでしょうか?

野口:わしらはここで生まれて、12~13歳のころから山に行きよったけんな。学校に行きよるんか山に行きよるんかわからなんだったな(笑)。山に本籍があるようなもんじゃった。山に行くことが格別苦でもなんでもなかったわな。

わしらの仕事の材木を伐るちゅうのは、だいたい労働者ではクズじゃわ。技術はいるんじゃけんど、そんなことする人は少なかったわな。ほんでもお金は取れたけんどな。そりゃほかの仕事、ほんでも近山(ちかやま)の杉を植えたり下草刈りしたりする者と、賃金の差はだいぶあったわな。3割ないし5割ぐらいは余計もらったけんの。

ほんでわしらは貧乏人に生まれたき、お金になるからその仕事を好んだもんの。わしの親父はわしよりちょっとカラダも小さいけんど、それが子供のころから山仕事をするだけんの。このあたりでも材木伐りを職にしとる人っちゅうのは、(成人男性の)3割もおったかのう。だいたい決まっとった。兄弟から親子とずっとそんな仕事が続いとったわな、このへんじゃ。

昭和58年撮影の杉の枝打ち映像。(資料提供:上野良夫氏)

——お仕事をされてきた中で危険なこともありましたか?

野口:わしらみたいに奥の山で木に登って材木伐りしよると、それもまあ危険だけんど、落ちない人はないんじゃ。わしもいっぱい落ちよったことはあったんじゃけんど、長いことやりよったらかならず落ちるのは落ちる。

このあたりの言葉で言うと「じん様まで落ちたらいかん」と。「じん様」というのは「土地」という意味じゃけど、土のところまでは落ちるなと。「じん様まで落ちるまでにかきつけ(木にしがみつけ)」と。

だれもわざとおもしろうて落ちるんじゃないんじゃけ、自分のやりよることに間違って落ちるんじゃけな。間違うことなく、ちゅうのはなかなかむずかしいわな。わざと落ちてきよるんなら掴まえるかもわからんけんど、落ちろと思わんのに、落ちるやつはなかなかむずかしいんや掴まえるのが。

掴んだ枝が一つ折れたら、今度は二つ目、三つ目を掴むくらいの神経にならだったら(ならなかったら)、木の上で仕事はするな、できるようになって初めて木の上で仕事をせえと習うたんじゃわ。

わしの叔父は山の北側でも技術者じゃったわな。昔は材木を伐ったら斫り(はつる:表面を薄く削ぐ)よったけんな。叔父はなかなかの技術者やった、腕が良かったんじゃ。「きんた」いう名前じゃったから「きんたおじ」と呼ばれとっての。きんたおじが斫ったものは、かんなをかけたやつか、斫ったやつなのかわからんっちゅうこと言いよった。

丸いものの四方を斫るんじゃけど、それはやっぱり、採寸に応じて斫りよったんやな。大工といっしょで装備するんじゃけど、どこでも斫れんからの。小さい材木を持ってきて、その上へ置いて、そうして斫りよった。これを「輪掛け(りんがけ)」と言うんですけど、この輪掛けもまた技術がいるんよ。

だいたい直径50センチから上の材木を斫るんじゃ。それを2~3人で輪掛けをして斫りよったな。きれいに斫ってたくさん量をこなさなければお金にならんけん。輪掛けもまた技術がいったんじゃ。

わしも兵隊に行く前に、この奥で一週間あまり斫りよった。戦争前じゃったから山の仕事師が少のうて、はよ出さないかんけん、技術者は斫ってくれっちゅうて。

——木馬(きんま)についてお伺いしたいんですけども。

野口:木馬曳きはまあ危険な仕事じゃけんど、労働者ちゅうのはお金になるけんやりよったけんな。これくらい危険な仕事はないはな。

木馬の荷っちゅうのはおかしいもんで、高さを低く、幅広にして積んだらひっくり返りづらいわな。そじゃけんど重いんじゃ。上へこう高く積んで、ゆらゆらするように積んだら引っ張るのが軽いんよ。高くすると、止まっとった木馬を曳きだすときに、自然にぐっと出てくるんじゃわ、だからあんまり幅広にせずに高うにして。わしらは身長1メートル60センチに足らんくらいやけど、自分の頭より上にあるような荷を、一人で引っ張ってくるんじゃな。

ちょっと傾斜のきつい道に来たら、木馬っちゅうのは油つけて引っ張りよるもんでな、すべるんじゃ。ほんですべるんを止めもってくるやつが一番危険なんだの。

木馬道というのは、全部土のところを掘って、ええ道路にしたらしよいわな(楽だな)。そんな道路ばかりじゃないんよ。ほとんどは「から山道」いうて、長い材木を渡してそこに横木を並べてな、その上を曳いてくるん。ほとんどの馬道は「から山道」になっとる。昔はなんにも道具がないから、横木は山のカズラ(葛:ツル科)をとってきて括りつけとった。

そうしたらカズラが切れたりしてな、横木が木馬に寄ってくるわな。そして木馬が落ち込んで怪我したりする人があったんや。わしらは気をつけてたから、運よく木馬曳きよって怪我はせだった(しなかった)けどな。木馬曳きの怪我は手足が動かんようになるけん怖い、と言いよった。一番危険な仕事ではあるわな、木馬曳きっちゅうのは。

昭和57年撮影の「すら出し」映像(資料提供:上野良夫氏)

山の神さん

——危険なことが起こらないためにも、山の神様を祀ったり、信仰だったりはありましたか?

野口:山に祀ってる神さんは、ここらでも相当な数があったな。ところどころでずっと昔からしよったもんで、細かい祠(ほこら)があって、そこには大木があったもんな。それは山の神さんの木じゃいうことで、昔から伐らずに置いてある。

今でもこの奥に、わしんく(わたしの家)の山があるんじゃ。そこにも山の神さんがある。大きな木を今でも置いてあるわ。山の神さんのあるところの山は昔から伐採して焼畑してヒエを作ったけんど、 山の神さんの周りだけは焦がされん言うて、神さんの周りを避けて山を焼きよった。

——山に入られる前に拝んだりされていたんですか?

野口:そうじゃな。わしらはそれほどまでせなんだった(しなかった)けど、だいたい材木をようけ出しよるところでは、月に一回は山の神さん祀りをして、そこの労働者は全部休みよったわな。それを文字に書いたらどう書くか知らんのじゃけど「じょうもく」と言うたわな。「月の七日はじょうもく」いうて、毎月7日がほとんどじゃわな、このへんなら。

それも高知県の物部村(ものべそん/現・加美市)は、どこ行ってもそれをやりよった。この北側が特にそれをやりよったな。 ちょっと大きな木でもあったら、その木の下に石を積んで、そして山師でも祠(ほこら)くらいは器用なものをこしらえるけんな。そういう祠をこしらえて祀っとったな。

わしらおったところでは、月の七日は全部休みじゃ。そりゃもう天気がどうこうではなしに、7日と決めたらかならず休んで山の神さんへお参りして、その晩は山の材木をしよる事業主がお酒を買うてくれて飲んで、かならずしよったな。もう毎月。祀ってあるんは「大山祇命(おおやまつみのみこと)」と書いてあるわな。あれは元は瀬戸内海のこまい(小さい)島(愛媛県今治市大三島のこと)にあるらしいんじゃけど。

戦場で活きた腕

野口:山師いうもんは、兵隊に行っとるもんは少なかったわな。わしは体はこまかった(小さかった)けど体力があったけん、丸三年は第一線で働いた。病気一つもせず入院の経験もなしで戻ってきたけんな。ほかの者はたいていマラリアで入退院を繰り返して、弱い者はそれにやられてしもたわな。ほとんどは病気しよった。

山師をやりよったおかげで、兵隊に行って役立っての。山砲っていう大砲を撃つのに、チークっちゅう木があると撃てんのよ。ずーっと並んでての、撃ったら弾が当たって。わしら兵隊じゃけ撃てんでもかまわんと思っておるけど、そこを指揮しとる将校隊長は弱るわな。「さあ困った」言うて。

ほなわしが「隊長、もう少し下がりますか」て言うた。日陰になる大きな木の下に大砲を据えとったけど、そこから離れると見つかって敵に撃たれてしまう。だから「大砲は動かすことができん」と隊長に言われて。だからわし「隊長、これ撃てんならあの木を伐りよったらしまいじゃ」と言うたんじゃわ。「だれが伐れる?」言うから「わしが伐っちゃる」言うて。木を伐るのは慣れとったけな(笑)。

そしてわしが木に上がって伐ったんじゃ。そのとき「こんな技術者がこの長隊におるとは知らなかった」と将校が言いよったわ。伐った経験のあるもんでなかったらできん仕事じゃわな。経験っちゅうのはどこで足しになるかわからんの。(了)

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戦中フランス軍の捕虜になったという野口さん。今キャラバン参加作家ジャンフィがフランス出身と知り「当時優しくしてもらった。懐かしい」と、ツーショットの写真を撮った。

執筆者

長岡参
長岡参
千葉県出身、2012年から神山町在住の映像作家。長岡活動寫眞を立ち上げる。『産土』『産土 壞』の監督、企画、編集まで担当する。