とてつもなく古い布

インタビュー
2015.02.21

「太布(たふ)」という名の布がある。コウゾの皮から糸を紡いで織られた古代布のことだ。万葉集にも登場するこの「太布」は、歴史上、最古の布ともいわれ、江戸時代に急速に木綿が普及するまでは、全国で作られていたのだという。

しかし現在、その技法が伝承されているのは、全国でも唯一徳島県木頭村(現・那賀郡那賀町木頭)のみとなり、地元の有志が集まった阿波太布製造技法保存伝承会が「生きがい工房 太布庵」を拠点に、太布の伝承に取り組んでいる。

後継者不足などの問題も抱えているが、「太布庵」では、週に一度有志のみなさんが集まって活動しており、先人の技術を受け継ぐ地元の年配の女性陣による太布織りの実演を見ることができる。

その活動を見守っているような存在である、保存会会長の大沢善和(おおさわよしかず)さんに、太布の歴史や概要を伺った。
(敬省略)

大沢さんインタビュー映像(抜粋)

なぜ木頭にだけ「太布」は残ったのか

——太布(たふ)っていったいなんですか? と問われたとき、どのようにお答えしているのでしょうか。

大沢:そうですね、日本列島に人が住み始めてどれくらいになるのか、ちょっとわかりませんが、人間は何かを身に纏(まと)わなければ生きていかれない動物ですよね。ですからほかの動物の毛皮をそのまま身に纏う、ということはしていたと思うんです。

それだけではいろいろ調節ができないので、今で言うところの「織物」みたいなものを作って、身に纏いたいという欲望が起こった。そのときに何を材料にするかと考えて、まず一番最初に目についたのが、草の皮や茎、それから木の皮、ようするに「繊維」というものに気がついたんだと思うんですよね。

その繊維は、コウゾ(和紙の原料として古くから使用されている)、それからコウゾの親とされているカジノキ。カジノキはおそらく南方から伝わったんだと思いますが、それらの木の皮から繊維をとって、それを縦横に編んで織物にして、その織物を身に纏うというふうな生活を始めたと思うんです。

それが文化というものの始まりとすれば、日本の文化の原点、出発点がこの「太布」ではないかと考えているわけです。逆に言うと、一番原始的な文化です。

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コウゾといえば「紙の原料」だと、みなさんだれでもそう思います。それは今に始まったことでなく、江戸時代の本居宣長という大学者でさえそう考えていました。たまたま友達から阿波の太布なんてものを送られて、「まだ今ごろ織っているところがあるのか」と驚いたというぐらいですから。

——あの時代で太布はすでに伝説のようなものになっていた、ということですか?

大沢:伝説というか、江戸時代に木綿が爆発的に普及し始めまして、木綿に押されて太布はどんどん忘れられていった。にも関わらず、まだ太布を作っている四国山地があると知って驚いたと。

紙はかなり高級な手間のかかる技術で、いっぺん繊維を溶かしてばらばらにして、もういっぺん集めるという方法をとります。この太布の織物は、文献で言えば「栲(たえ)」という言い方で一番出てきます。「たほ」や 「たく」と言うところもあるそうですが。コウゾあるいはカジノキの木の皮から繊維をとって、それで糸を作って、縦横に編むという技術は、紙に比べてはるかに原始的な作業なんですね。

江戸時代に木綿が爆発的に流行ったにも関わらず、なぜこの四国の山地で、今の那賀町の木頭地域で太布を織り続け、平成の時代になってまで残るようになったのか、という経過はまだちょっと確定はしていません。

肌触りが良いし、着心地も良いものですから、みな木綿を欲しがったわけです。木綿を入手する手段として、お金で買うか物々交換しかなかったわけで。ところがお金がなかったんですよね。

太布の取り柄は丈夫なことで、ほかに換金作物もなく、換金作物の一つとしてとにかく太布を織て、織った太布をいったんお金に換えて、それで木綿を買うということをやっていたんです。

太布を丈夫な袋物に加工し販売したお金でもって、木綿を買うという方法は一番多かったと思います。じきに太布の一反と木綿の一反を交換をしてたようですね。それはコスト的に言えば全然合わないんですが、やはり木綿を日常の肌着として使いたかったわけです。木材も都会の需要地に運ぶ手段がなく、あまり売れない時代でしたしね。

太布庵での作業風景

あるいはこの地方では、明治になっても、各家庭に機織り機がありましてね。それで当時は若い娘に、「太布を織れない娘は嫁の貰い手がないぞ」というような脅しもかけられて、続けられていたわけです。

だんだんとそのうちにこの地方独特の杉が、大正から昭和の始めごろから非常に盛んに売れるようになりました。つまり、那賀川を利用して木材を下流に運ぶという技術ができ始めましてね。ダムのできる昭和30年(1955年)ごろまでは、木材の運搬は那賀川を使っていて、川は材木の道だったわけです。

ダムができても、まだまだ木材ブームは昭和50年(1975年)ごろまで続きました。そのうち道路も整備され、トラック輸送に変えて木材がどんどん売れるようになって。もう太布なんかに頼る必要がなくなったので、辞めていったんです。

ところが戦後、昭和30年代(1955年〜)から文化庁というのができまして。その文化庁のいろいろな伝統民族の文化財の調査が全国的に行われて、30か40くらいの項目の一つに、たまたまこの太布も取り上げられました。

実際に調査をしたのは徳島県の教育委員会ですが、調査を始めて昭和40年代(1965年〜)には、太布織りの名人の一人だった「岡田ヲチヨさん」という方が個人として、県の重要無形文化財に認められたりしました。

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太布織りの名人の一人 岡田ヲチヨさん(写真提供:大沢善和氏)

この地で太布というのは、単に今まで伝統的にお金にするために、あるいは実用にするために織ってきただけなんですが、文化財として値打ちがあるといって、地元の役場なり住民が知り始めていたわけなんです。

そんななか、昭和の中期、ごく趣味的な感じで太布を織っていたおばあさんたちがおられたんですね。ですがとうとうそのおばあさんたちも、昭和50年代(1975年〜)に亡くなり始めました。それでここにいらっしゃる一番ベテランの方が、そのおばあさんたちから技術を教わりバトンタッチして、昭和59年(1984年)にこの「阿波太布製造技法保存伝承会」を作られたんですね。

今や普通の家庭では、もうまったく作っていませんが、会として保存を始めて約30年ぐらいは経っていて、それがこうして残っている一つの大きな原因です。

江戸時代にはまだあった四国のほかの山地、たとえば高知県の山地だとか、ここ以外で一番最近まで太布をやっていたのは、徳島県三好市の祖谷(いや)地方ね。あそこは昭和30年代(1955年〜)ぐらいまでは、細々とやっていた記憶はあるんですが、そこは木材ブームには関係のなかった地域なんです。木頭は木材ブームで多少経済的に余裕があったので、この会を作って残せたのだと思います。

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生きた博物資料をつくり続けたい

——太布はいわゆる国民服のようなものだったということでしょうか。

大沢:そうでしょうね。木綿が爆発的に普及しだした江戸時代以前は、木綿がなかったわけです。そうしますと何を着ますかね? この太布は「古代の木綿」と言う人もいるわけなんですね。

木の皮を材料とする場合に、コウゾ、カジノキのほかにも、たとえばフジとか、クズ、シナだとかオヒョウだとか、いろいろほかにも木はあるんですけれども、実際にやってみて一番作業工程が楽なのは、このコウゾであるように思いますね。ですからコウゾのできる地域は一番楽なコウゾを使ってね。だいたい福島県から南、西のほうはコウゾが一番多く作られていたはずです。

そのうちに木の皮よりも、アサやカラムシ、まあこの地方の方言で「ヒョウジ」と言いますけども、それらの方がもっと行程が楽なので、そちらの方に移っていきました。

木綿が普及する直前までは、古代ではコウゾ=栲=太布が主役だったんですけれども、主役交代して、アサやカラムシが主役となった。しかしやっぱり一応実用的には作られていたはずなんですね。

ようするに、その地域の状態によって、麻ができないところもあり、コウゾはここらへんはいくらでもありましたから。全国的に言うならば、たとえば平安京あたりを引き合いにするならば、木綿普及する前は、アサやカラムシが主役で、コウゾ=栲=太布、クズ、フジなんかは、脇役にまわっていたとは思いますけどもね。

——たしか万葉集で「たえ」という言葉が触れられていたと思うんですが……

大沢:「白栲の――」っていう、有名な枕詞がありますよね。一番有名な和歌は

春過ぎて 夏来たるらし しろたへの 衣ほしたり 天の香具山

という持統天皇の詩が一番有名ですけれども。まあ白いっていうのは飾り言葉で、ようするに栲(たえ)です。

今わたしどもがつくっているのはこの「白栲」ではなくて、どうも万葉言葉で言うと「粗栲(あらたえ)」のようなんですね。それからそのちょっと前の古事記とか日本初期の時代ですよね。その時代において、木綿という地位を太布=栲が占めていて、一番多く作られていたから、文献にも一番多く残っているんだと思います。

——最後の質問ですが、太布は今後どのようになるというふうにお考えですか?

大沢:はっきり言って、江戸時代に木綿が登場してから、太布は完全に実用品ではなくなりました。しかし、万葉時代も現代の私ども太布庵で作っているやり方も、基本的には変わっていないはずなんですね。多少個人によって作り方は違うにしろ、糸自体は木の皮そのままなんですよ。ですから古代日本の文化が始まった当時の方法で、今まだ生産しているということは、博物館に死んだ資料としてあるものとは、意味が違うと思いますね。

今は多少商品化して売ってはいますが、とてもじゃないけどコストが合いません。100円ショップで買える良いものがいっぱいありますからね。ところがここで作りますと、その100倍ものコストがかかって、とても製品として売って成り立つようなものではありません。

しかし、「伝統文化を保存する」というその観点から、今この保存会で活動しているわけです。古代の織物がどのように作られてきたかということを知るためにも、なんとかこの活動を続けていきたいというのが最大の願いです。 (了)

執筆者

長岡参
長岡参
千葉県出身、2012年から神山町在住の映像作家。長岡活動寫眞を立ち上げる。『産土』『産土 壞』の監督、企画、編集まで担当する。