無名のカメラマンの妻

インタビュー
2015.02.21

故・中野建吉さんは、徳島県木頭村(現・徳島県那賀郡那賀町木頭)出身で、役場で働きながら木頭の暮らしを撮り続けたカメラマンだ。その作品は、写真集『ぬくいぜんか』などにまとめられている。

「ぬくいぜんか」とは「あたたかいねえ」といったニュアンスの木頭の方言

建吉さんの作品群は、そこに住んでいる者にしか撮ることのできない、被写体との親密な関係、四季折々の暮らしの細やかな日々がちりばめられている。

建吉さんが病に倒れて亡くなられてからは、夫人のみね子さんが、ギャラリーだった場所をカフェ「KEN’sギャラリーカフェ」として引き継ぎ、彼の写真とともにお客さまを迎えている。

ロケの最中にランチに立ち寄り、取材する予定のないまま、みね子さんと会話をしているうちに、思いもかけずいつしかスタッフ全員が涙ぐむような話を聞かせてもらえた。

『産土』本編では、建吉さんの写真数点を使わせていただいたのみで、みね子さんのインタビューは紹介できなかったが、ここに改めて掲載したい。
(敬省略)

中野さんインタビュー映像(抜粋)

この人をなんとかしたい

——建吉さんは木頭で生まれ育ち、就職で県外に出られて、また帰ってこられたんですか?

中野:最初は高松で会社に入っとったんじゃわ。わりと頭が良かったんか知らんけど、高校から推薦で会社に行かせてもらって、土木関係の監督みたいな仕事に入ってしよったけども。

やっぱり好きなものは捨てきれんから、映画はびっしり観に行きよったって。こんなことをしよったらいけんと、学校の先生やみんな周りの人に世話になっとんのに、仕事に入ってすぐに2~3ヵ月くらいで辞めて、大阪へ行ったんじゃわ。

大阪でお金を稼がないかんで、文房具屋のチラシを見て、ここに入ったらなんとかなるかなと思って門を叩いたら、そこの人がご飯を食べさせてくれたり、ここで働けって言うてもらって働きよって、とにかくええようにしてくれて。

どんどこ文房具屋も大きくなりよって、「一軒店を持たしちゃる」と言うてくれたんやって。それでも、ここで店を持って落ち着いたら自分の夢が果たせんと、また黙って出て行ったらしいわ。ほんだけ世話になっとりながら。

それで東京へ行くって木頭の友達にだけ言うて、新田昌玄(にったしょうげん)ちゅう木頭出身の映画俳優になっとる親戚の人を頼って行ったんじゃわ。ほれがここらへんで「映画俳優になるって新田昌玄のところへ行ったんじゃ」って噂になっとったんだわ。もう笑い話じゃ。

ほんで行ったら、せこい目(大変な思い)して俳優になっとるけん「あんたみたいな子ではできん、とにかく家に帰りなさい」って門前払いをくうて。それで木頭に帰ってきて、役場へ行きよる人の計らいで、役場に入りよったわけよ。それがもう宿命的なもんじゃわな。

役場に勤め出したら、なんやかんやで自分がしたいこともできんかったけん、悶々としよったんだろな。酒に溺れながらの独身生活を送ってたから、胃が壊れとる。それで私が勤める病院に注射しに通いよったんよ。

そのときに「この人をなんとかせなあかん」と思いよったんよ。やっぱりこう母性本能かな? 持って生まれた性格かな? 知らんけんどの。

——みね子さんは生まれも育ちも木頭なんですか?

中野:そう、出たことない。高校も地元のこのすぐそばに分校があったんよ。それももう廃校になったけどな。自分の父親が高校のときに亡くなって、長女やったし自分も身体が弱かったし、外へ出て行く勇気もなかった。

あんまり勉強が好きでなかったし、母親一人で、下にも妹や弟がおって、一番下の弟がまだ小学校3年だったから、なんとなくこの土地に自分はおらないかんかなって。やっぱり人生は決められとんのよな。ほなけん、ほれだったら楽しいにせなあかん。

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カメラと病気と

中野:そうこうするうちに結婚して。結婚式のときに建吉さんは、胃腸薬を2箱飲んだって。今の披露宴みたいな感じで、親戚の人とその向こうの旅館でして、友達呼ぶのは家に呼んで、青年団がお祝いをしてくれて、呑んで呑み疲れて寝たの。

ほしたら建吉さんが夜中にお腹が痛くなって、近くの診療所に行ったら「胃の中に穴が開いて出血しよる、はよ大きな病院行かんと時間の問題じゃ」ちゅうて。新婚旅行に発つ朝、友達の車に乗って中央病院まで行って手術をして、全部を変えるぐらいの輸血をして、命拾いしてな。新婚生活が病院生活じゃわ。

徐々に良くなって退院したけど、輸血で血清肝炎(輸血や注射器によって感染するウイルス性肝炎)になって、「数値をきちんとしないと、一生の病になるよ」って病院の先生が言うてくれて。今だったら早うにわかっとったら、いろいろな手当があるけどな。

後々になって息子の肝臓をもらって移植をしたらいけるかもわからんって言うたけど、建吉さんは「息子に傷を負わしてまで生きたくはない」って言うて、息子に言わんずく(まま)だった。

それで結婚2年目に子供に恵まれたときに、なんかせなあかんっていうような感じで、写真をつつきだしてな。「田植え」とか「筏流し」とか山の中で芽生えとるものを、なんかの形で残しとかないかんって、その時分から思いよったんやって。そのころには、わたしにそんな話しはしなかったけども。

ほんで植田正治さんとか、いろいろな有名な人の写真集を見て、その中には「なんやらえいこう」って言う人……

——細江英公ですね。

中野:ほう。その人の写真なんかを見たりして、なんかこう奇妙なものが写っとるものがようけあったわ。わたしはあんまり興味がないけん見なんだけど。

ほんで写真誌の読者の写真に出したりしてな。もうとにかくそれに賭けて。毎回暗室の中から持ってきて、一番最初にわたしに見せてくれるんやけど、素人やけんわからんで、自分が思ったことを言うてあげるで。そうこうしよるうちにいろいろな賞を獲りだして、撮りためとったん。

わたしは病院勤めやから、病気の面も見守っていかないかんけど……。あの人関係ないんよ、身体に症状がないから。肝臓の数値が良かったらお酒も飲んでみたり、子供のクラブ活動に参加して盛り上げて、どこ行ってもリーダーシップとって、楽しいようなことをずっとしてきて。

子供たちには、大学は4年で卒業せなんだら(しなかったら)知らんよ、卒業したらもうあなたたちはあなたたちで自分のことをしなさい、と。子供たちの大学卒業と同時に、もうお金がいらんなるから、家を建て直すよう計画を立てて。

家を建て直すのは私の夢だったんよ。建吉さんは新建材の匂いに敏感で、だからこの木の家を作りたかった。塀も全部木で作ってあるでしょ。壊れたときに、ブロック塀だったら廃棄物になるけれど、木だったら腐っていくでな。それで平成11年(1999年)にお家を建てた。

やっぱり女の人がお金握っとるけん、男の人は夢ばっかり追われて……。わかるだろう? 女の人は現実的に子育てもせないかん、お金もいろいろせないかん。

平成13年(2001年)ぐらいから、建吉さんにいろいろと病気が出てきだして、建吉さんと、じいちゃんと、ばあちゃんを看ながら病院で働きよったら、どっちつかずになって大変じゃと思って辞めたんよ。建吉さんが病院行くのに、運転手をしていこうと思って。

わたしが53歳のときから足掛け8年ぐらい、建吉さんのアシスタントとして、高知の「どろんこ祭り」を撮りに行ったり、神山のほうにも行ったし、いろいろなお祭りに追われて。車で行くところは、全部わたしが運転してあげてな。

建吉さんも、独身のころは一人であちこち行きよったし、普通に動けるんじゃけどな。体がしんどうなってきたらな、負担になるようなことは、わたしがカバーしてあげなあかんよねやっぱり。

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写真集

中野:子育てが終わって、いつかは写真集を作る協力をしてあげたいなとずっと思とった。早く作らんと弱ってしまってからではできんけん、写真の仲間にきっかけを作ってもらって、周りの人の協力でできあがった。本人に言うたんでは、簡単に写真集を作るとは言わんかもわからんけん。

写真集を編集してくれたのは鴨島(徳島県吉野川市)で本を作る店をしている人なんやけど、この人に巡り会ったというのも、建吉さんが持っとるええ意味での宿命的なもので、せないかんことには人が寄ってくるもんの、やっぱり。

わたしは最初、だれに言うたらええんかなと思いよるうちに、鴨島に変わった人がおるよって教えてもろて。変わった人と言うか、やっぱりこう……気の合うような人。いまだに交流もあって、なんか弱ったことがあったら、その人に話をして聞いてもらうんやけど。

何枚もの写真の中から選び出して、写真集としてあれだけのものにするっていうのがよ、すごいと思うの。わたしはそれを感謝したいんよな。建吉さんは撮るだけ撮ったとしても、本にしてくれる人がおらなんだら(いなかったら)、できあがらんのよの。

東京に持って行っても、どこへ持って行ってもよ、いっぱいいろいろ有名な人はおるけんどもよ、たかが素人が写真集を作るけん、これを見てくださいと言うて見てくれる人はあんまりおらん。

建吉さんは、自分の想いが一枚一枚にこもっとるけん、これも載せてもらいたい、これも載せてもらいたいって全部載せてもらいたいけども、ほれを全部カットして、こんなん載せるんか? というものでも「これがあるからこの写真が活きてくる」って、こういう編集の仕方をしてくれたんよ。

それでもどうしても捨てきれんものがあるから、これはもう一冊作り上げないかんっていうんで、第2作目の『空蝉(うつせみ)』っていう写真集を作った。

編集しよるときに、もうその人とだったら、朝から晩まで夜が更けてまでずっと話をしてもしきれんの。とにかく意気投合して、ごっつい喧嘩するほど意見を言いながら編集をするんやけどな。「その写真は載せてもらいたい」「その写真はそんなにしたらあかん」と言いながらの編集やけん、その人もごっつい努力がいったと思うけんど。

全部のネガの中から見極めていく作業、ほれはもうほんまにすごいなって思うた。ほんでそういう人に出会うということも。

わたしはほんまにな、神様に感謝しとんよ。それはなんかこう神様的な技でないとできんし、想いっていうのがの、すごいもんなるで。一つ一つに人との出会いがあって、ほんまに感謝しながらできた写真やな。

東京で写真展をしたときも、みんなが涙を流して見てくれた。知らん人がよ、全部笑いよる写真やのに、一回りまわって帰ってきて話をして、もう一回まわってきたら涙を流すの。不思議なことない? 全部笑いよる写真やのに、涙を流して話をするんよ、わたしと。

建吉さんがもう最終的に(体調が)ごっつい大変だったから、写真展の展示期間の一週間、東京におれず先に帰ってきたんよ。わたしは東京で一週間、ずっと写真展のところについとったんやけど、こんだけ感動するものを人に見てもらえるっていうことが、ええものを残していったんだと思ってな、もうな感謝。

やけん(だから)、なにかをしてあげないかん。あの人は子供たちとか私に託して、なにかをしてくれってことは一切ないと思うんよ。自分が楽しんで夢を追ったし、亡くなったらそれはそれでええ、とな。

『空蝉』のネガを出さないかんとき、建吉さんがバタバタっと体調を崩して、自分でようせなんだ(できなかった)の。その作業をだれかがせんと本にはならんで、娘に託したんよの。娘は終わったら熱出して寝込んどったね。お父さんといっしょでそれぐらい几帳面な子なんよ。そうしてでき上がったんや。

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夢のつづき

中野:あとはもう喫茶店をするにしても、自分が楽しみなさいと。「亡くなった人のためにするんでなくて、自分で楽しんで人生をエンジョイしなさい」って言うてくれたよ。「何本でもまだまだ花を咲かせなさい」っての。ほなけん亡くなった後、わたしは泣いたらいかんと思ったんよ。

「泣くのは一週間でええよ、四十九日もせんうちにお店は開いてどんどんしなさい」って言われてたんよ。ほなけん泣くどころじゃなかったな。ところどころで思い出すし、腰が上がらんときもあったけど、やっぱりこの店は人のためにせないかん。

夢ってな、叶うて行くんよの。結婚したときからこんな家を建てようって。子供がなんぼのときに生まれて、子育てをして、子供たちが何歳になったら結婚して行くかなって、ずっとライフプランいうか、頭の中に描いとって。

山の中で人のためになるようなことをしたいなっていう、夢みたいなことはどっかで思うとったな。思うとったらやっぱり実現するわ。人のために、建吉さんのために、このギャラリーを建てて。

あの人のためっていうか、自分のためにライブを開いたり、好きだった音楽を流して、この「KEN’sの風」に乗って帰ってきたらええかなって。木頭の人とか、震災で亡くなった人とか、どっかに関わりのある人がおるで、「千の風に」でないけどみんなが便乗してほれに乗って。

これ(今回の取材)もなんとなく建吉さんがここらへん(体の周り)におって、動かしてくれよるんかと思いよん。人がしてくれてでき上がっていくもんやけん、それも感謝でえ。

この地域が高齢化して、一人一人と亡くなっていきよるけども、住みよる人がイキイキと盛り上げていかなんだったら、やっぱり地域は楽しくないけん。ここに電気が点いとるだけでも人のために役に立つし、わたしの元気なうちはライブを年に一回続けられる限りはしていってな。

それを子供にどうして欲しいとか思わんし。自分が建てたお家やし、建吉さんが残してくれたものだから、楽しくしていかなあかんけん。輝いているかどうかはわからんけどさ、ほんでも自分が楽しかったら、これは亡くなった人のために生きるんかなと思いよんやけどな。

——建吉さんは、東京に行きたいお気持ちと、映画を作りたいお気持ちが、やっぱり最後まであったんでしょうか?

中野:あったあった。わたしの一番下の八つ違いの弟が結婚式をするようになったんよ。そのときストーリーやスタッフのあれこれをしたり、入場行進とか、自分が監督じゃけん、なりきって、バリバリといろいろなことしよった。

後で見つけたんやけど、シナリオがあるわけよ。ここで音楽を流すとか、ここでスピーチをするとか、ここでお嫁さんが入場しますとかいうようなものがずっと書いてある。なんにしても几帳面に、したかったことを一つ一つ、自分の夢をあてて。

夢っていうのは、いつまでもふつふつと、なにかにつけて燃えていきよるんよな。ほなけん夢を追い続けよったんじゃ。

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亡くなって1年目か2年目の子供が東京から帰ってくるときに、高知までわたしが迎えに行ったんよ。 お盆の13日やったけん「早く戻って火を灯してあげなんだら、お父さんが帰って来れんかもわからん」て言うたんよ。ほしたら息子が「お母さんそれはかまわん」って言うんよ。「どうして?」と訊いたら「夢を見た」って。

「母ちゃんに怒られるから早く家に帰らないかん」って言いながら、お父さんが写真をパチパチ撮りよる夢を見たって。「向こうに行っても写真を撮って忙しいけん、ぼくらが帰ってから火を灯しても間に合うわ」って言うてくれたんよ。ほんまにそんなような気もするしな。

それにこの6月(取材日は7月)、写真集の編集してくれた人から電話がかかってきて「なんかありましたか?」って言うん。いろんなところから写真のパネルを貸して、展示をしてってゆう電話はようけきよるけん、そういう話しはあると言うたら、「ゆうべ鮮明な夢を見たから、なんかあったんかと思うて」って。

夢の中で、いつも乗っている白い車で建吉さんが家に帰ってきた、と。なぜかそこに編集長がおって、「どうしたん」と訊いたら「大学病院から今退院してきた、大学でええ薬ができて完璧に治ったんじゃ」って。「この前お葬式したのに」って、ほういう会話を夢の中でしたんじゃって。「みんなには死んだってなっとってもええけど、ぼくは治って帰って来たんじゃ」っていうような。

たくさんのカメラの機材を車に乗せて、また(撮影を)いっぱいしたい雰囲気じゃわの。生きとったら夢は捨てきれなんだし、こんな人ら(取材班)とも、建吉さんが話をしたかったことじゃと思う……。

(声を詰まらせるみね子さん)

中野:写真しよるような人が来たら、もう離してくれんぐらい写真の話が尽きなんだ。ほなけんな、やっぱり私に話をさすっていうのが、亡くなった人の霊魂がさせるんでないかなと思っての。

この店を通じて、亡くなってからでも、それにふさわしい人が来てくれてよ。ほうゆう人が来てくれるってことに感謝する。自慢するわけじゃなく、建吉さんのことをもっともっと広めて、写真集を一人でも多く見てもらいたいんや。

周りはあの人が亡くなった、この人がっていう話ばっかりで。いろいろなことがありながら、自分が元気でいきいきとして、そしてとにかく人が楽しくなるようにしてあげようと。

この道筋に、火を灯してぬくもりがあって、ちょっとでも立ち寄れるところがあったらええかなって、続けていきたいなって思うんやけどな、体力がいつまで持つか。こんだけ喋れるならいけるわって、言われるんやけどな(笑)。

でも取材はいろいろ喋らせてくれるな。まあな、うまく言えたかどうかはわからんけども。(了)

執筆者

長岡参
長岡参
千葉県出身、2012年から神山町在住の映像作家。長岡活動寫眞を立ち上げる。『産土』『産土 壞』の監督、企画、編集まで担当する。