誰もいない村

インタビュー
2015.02.21

天竜川の支流、遠山川に沿うように広がる深い谷間に位置する遠山郷。行政区分としては、長野県飯田市南信濃と上村の一帯を指す。「信州の奥座敷」と呼ばれたり、日本秘境100選に選ばれたりするように、とても山深いところだ。

遠山郷の北部から泰阜村(やすおかむら)との境にある黒石岳の中腹、標高約1,000メートルに位置する場所に、かつて「底稲」と呼ばれていた集落跡がある。

戦後の食糧不足解消のため、国が山林などを払い下げ、農地を開拓する政策を進めていた時期、開拓事業の適用を受け、昭和21年(1946年)に18戸56人が入植した集落である。

交通の便が非常に悪く飲料水にも事欠くなど、生活基盤としての立地条件が悪かったため、昭和30年(1955年)ごろから転出者が増えていった。昭和51年(1976年)、行政が行なった集落整備事業により、最後まで残った一家は山を下り廃村となった。

その一家の一人、緑川実男さんに出会いお話を伺うことができた。底稲集落での当時の暮らしや、山を下りたことへの感慨などを伺った。
(敬省略)

緑川さんインタビュー映像(抜粋)

開拓の末路

緑川:うちはじいさんが福島の出身で、トンネルの仕事をしたり、桧皮葺(ひわだぶき)の職人をしていました。若い方は桧皮葺をご存知ないかと思うけど、ヒノキの皮で屋根を葺くんですよ。その関係でじいさんがこっちに流れてきて、ここへ住み着くと同時に、底稲の開拓に入ったということらしいんですけどね。

——ご先祖代々が、旧底稲集落にいらしたということではないのですね。

緑川:そうですね。じいさんは俺が中学1年生くらいに亡くなったのかな。だからいろいろ話を聞くことはなかったですね。もともと山へ入ったころは、開墾してたんで作物もなくて、猟師をしてうちの家族を養ってくれたと、親父から聞かされました。

あの山(底稲)に家は10軒しかないんだけど、当時は学校に通っとる子供が、15~16人くらいいたんですよ。でも、道ができると外へ出ていっちゃう田舎の習性があって。うちが一番最後まで頑張ってましたけどね。

——そもそもの開拓のきっかけは、林業のためではないんですか?

緑川:ここに開拓組合ができる前に住み着いていたんですよね。それで開拓制度で国に土地を借りて、毎年お金を払って、後に自分のものになるっていうシステムで始まったんです。そのシステムで開拓組合って組織ができて、それから降りてきた人もおるし、残った人が10世帯っちゅうことですね。

その山も十二分に割り振ってくれて、お金を一年にいくらって払いながら、結局自分のものになった。自分のものになった後、出ていく人はみな売ってしまったということなんですね。

——皮肉な話ですね。

緑川:そうですね。道ができて土地が自分のものになって、それを手放してそのお金でよそへ行くという。その当時で、一人あたり500万円くらいになったのかな。

——ひと山で、ですか?

緑川:ひと山といっても、うちの土地が全部合わせて三町八反とかっていう世界なもんで、山は二町分(約2万平方メートル=約6000坪)ぐらいかな。そんなに広い山じゃないですよね。その山に広葉樹とか、針葉樹とか植林しとる山は、もうちょっと高く買ってくれたみたいなんですけどね。

その当時はカヤを刈ってきて畑に敷いたりとか、ほとんどがそういう目的で使っていただけですから、植林っていうのはあんまりしてなかった。うちはじいさんが山に植林をしてたんで、結構いい木が残ってるんですよ。

——主にどういった木を植林されていたんでしょうか?

緑川:ヒノキがほとんどだね。ここの村木はスギなんだけど、じいさんの代にヒノキを植えたのかな。その辺りに県の補助で、カラマツとかそういうのも植えてましたけど、うちはほとんどヒノキかな。

木を出せればね、ある程度伐り上げて、植林をして、山をきれいにしようと思うんだけど、出してくところもないもんで、なかなか思うようにいかないですよ。

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昭和30年に撮られた底稲住民の記念写真

賑やかだった当時の暮らし

——学校はどのように通われていたんですか?

緑川:バスも通らんとこだもんで、ずっと歩きだよね。

——子供が毎日歩きで……

緑川:日の短い時期だと帰り道が暗くなっちゃうんですね。だから懐中電灯を持って通っていて。カバンの中に懐中電灯を持ってる人つうのはあまりないことだって、学校でも有名になって。

——片道どれくらいかかったんですか?

緑川:小学生だったら2時間コースでしょうね。中学生になると、行きは下り道だもんで、40分くらいで駆け足で飛んでいって、帰りは競歩大会みたいな感じで、40~50分くらいでうちに帰ってましたけどね。

関所があるし、どうしても会話したりなんだりで時間がかかっちゃうもんでね。冬はすぐ暗くなるんで、なるべくまっすぐ帰るようにしてましたけどね。みんな「よく通ったなあ」と言うんだけど、家に帰らなご飯食べさせてくれんで。

——今でも家を残されていて、戻ることもあると聞きました。

緑川:ええ。今でも年に5~6回は行ってますね。トタンにペンキを塗ったり、木の手入れをしたり。近所だった人はみな手放して、連絡も取れないような状況ですけどね。

——お祭りなどはされていたんでしょうか?

緑川:そういうのはほとんどなかったですね。歴史のかなりあるお宮が一軒あるんですが、それは個人の持ち物で、部落の神社じゃかったので、お祭りってのは特になかったですね。

集会所もないんで、責任者の家に集まって会議をやるということはしていました。今だと各自治会に一つ建物があるじゃないですか、そういうものは全然なくて、10軒の家とプラスお宮が一軒、そういう感じですね。

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動物に荒らされたと思われる玩具やサンダル、空き缶等が散らばっていた。

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打ち捨てられた遠堂神社社殿内部

昔の写真を見ると結構良いところなんですけどね。盆地みたいな、扇子を広げたようなイメージの山なんですよ。底稲だけはそんなに急じゃなくて、作物もいろいろ作ってましたね。

陸稲(おかぼ)」って知らないですよね? 陸稲ってのは山の稲と言って、美味しくないんだけど、水のいらない稲なんですね。そういうものや、麦やこんにゃくを作っていました。

何軒かは牛を飼いだしましてね。親父は結構そういうこと好きで、うちも飼いました。ほかにもリンゴ、ナシ、モモをやっていました。

当時はそんなに良い品種の果物がなくて、紅玉(こうぎょく)や国光(こっこう)など、真っ赤でちょっと磨くとつるつるに光る、酸味の強いリンゴなどをやっていました。桃は白桃、梨が20世紀のはしりですね。新聞紙で袋つくったり、よくやってましたけど。

下山

——山から下りて移住されたのは、何年前ぐらいなんですか?

緑川:ぼくの娘が中学生くらいには山にほとんどいなかったんで、30年くらい前までですかね。

——山から下に移動されたのは、行政側から話があったんですか?

緑川:そうですね。年間にかかる道の管理費用の維持が大変で、昭和49年(1974年)ごろに県の補助で団地が建てられて、集団移住のような感じでみんなが移り住んだんです。道路を作れるような地形じゃないとこに住んでた人や、地滑り地帯に住んでた人など、あちこちから集団移住してね。

それで底稲に残った最後の一軒だったうちも、移住したっていう形ですね。ぼくは中学を卒業して、町の学校へ行ったりなんだりで、底稲から出ていたんです。6年くらいして帰ってきたときには、山からみんなが降りていたという。

——そうなんですか。

緑川:徐々に一軒一軒抜けたってことだね。開拓をやめて、新しい家に住むために名古屋の方へ出てった人と、自分の親の家に戻った人と、二つパターンがあってね。

その当時、開拓に行って、山で亡くなった人もおるっちゅうことで、結構年配のお年寄りもおったんですけどね。

——お父さまのお仕事は、主に林業をされていたんですか?

緑川:親父は夏の間は農業をやって、冬は名古屋の方に土木の仕事に行ってましたね。冬の間は旅に出てるっていう生活ですよね。

——今、故郷に対してどのようなお気持ちでいらっしゃるんですか?

緑川:親父が一所懸命苦労して家を残してくれたもんですから、粗末にできないので、たまにうちの子供たちが来たときに、泊まったりしています。

10年くらい前までは、電気・水道・電話を入れていたんです。今はもうあまり使わないんで電話をやめて、電気と水だけはあったものですから、不自由せんで寝泊まりしていたんですけどね。

でも実は、電気は去年の大雪で倒木が激しくて、復旧するのに1,500万円くらいかかるってことで、発電機を一台貸してもらうことになってね。今はそういうわけで、電気は発電機で、水は出るから風呂も入れる。

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——生活に必要な水が確保できないため、転出者が増えたと伺いました。

緑川:水は地下水を使っていたもんですから、ちょっと窪みみたいなところに穴を掘って。あの当時は10戸あったんだけど、ぎりぎりの水量で暮らしていた状況でしたね。

途中から水道を作ってくれて、今ではタンクに水が十二分にあるもんで、住むには問題ないんだけどね。

野菜を作って生活するだけならできるとか、そういう、ただ住める環境じゃないもんでね。荒れ放題になっていて、木ばっかりで、自分の家も見えないぐらいになっちゃったもんで。

昔は道を上りきると、ずらーっと家が見えるところに出て。ぼくの家は一番右側の真上に見えたんですけど、今では木が生えちゃって、ぜんぜん周りが見えないっちゅう状況ですね。

行ってみればわかるんですけど、農地もかなり広くあるんです。今でもそうだけど、若い人はみんなが集まる場所に寄りたがるじゃないですか。そういうのがなければ、おそらく住み続けていたと思うんです。

——住んでいた場所を出られることは、悲しいことだと思うのですが。

緑川:そうねえ、時代の流れでしょうがないと思うんですけど「住めば都」なんですね。冬が来ても、南の方なんでそんなに寒いっていうこともないし、夏は布団をかぶらなければ寝られないような、避暑地っぽいところなんですよ。

残念なのは、よその人がみんな土地を買い上げちゃって、まばらで手をつけられなくなっているんです。そうでなければ、キャンプ場など、なにか生かせるたんじゃないかという話もあったんだけど。

9年間あそこで育ってるんで、いろいろな思い出はありますけどね。帰るというのも無理なんで、親父の残したものは、できる範囲で粗末にせんように残していこうと思っています。(了)

執筆者

長岡参
長岡参
千葉県出身、2012年から神山町在住の映像作家。長岡活動寫眞を立ち上げる。『産土』『産土 壞』の監督、企画、編集まで担当する。